『沈黙』:スコセッシ監督が30年近い年月を費やした悲願の作品

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17世紀、江戸初期。幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。
日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた“隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し、キチジローの裏切りにより遂にロドリゴらも囚われの身に。頑ななロドリゴに対し、長崎奉行井上筑後守は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。次々と犠牲になる人々。守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは―。

無宗教ではあるけど、自身の宗教観的なものに大きな影響を与えたのは遠藤周作が書いた『沈黙』。その後に他の著作を読んでモヤが晴れたような気になった。
遠藤周作は「日本人にとってキリスト教とは何なのか」という命題を探求した人で、両者の関係や矛盾について悩み続けながら日本の宗教意識に基づいたキリスト教の解釈を行った。もっと言えば浄土真宗にも通じるようなイエスであり、西欧的な権威や父性的な考えでなく母性的な宗教意識から捉え直した。これは小さい頃から洋画をみて、キリスト教への疑問やそれを信じる側への憧れみたいなものを感じてた自分にはまさに青天の霹靂だった。いやほんと映画のためにキリスト教を勉強してる人にはぜひ読んで欲しい作家さん。

そんな遠藤周作に感化された人物は日本だけでなく海外にもいて、その一人がマーティン・スコセッシ監督。リトル・イタリーで熱心なカトリックの元に生まれた監督は、自身が撮ったようなギャング達の姿を見ながら教会に通い司祭を目指した。だけど途中でいわゆる世俗に染まってしまい司祭を諦め、キリスト教の在り方へ疑問を抱きながら『最後の誘惑』を撮った。この作品への熱狂的な賛否の中で手渡されたのが遠藤周作の『沈黙』で、読んだ後に映画化することを決意したらしい。そしてそれから30年近くの歳月をかけて、様々ないざこざや思索を続けて悲願の末に完成させたのが今作にあたる。

この映画でスコセッシ監督は、キチジローや宣教師たちの葛藤や苦悩が現代のキリスト圏にも通じると自身の過去と重ねながら世界に訴えかけてくれる。
「この世の中に、弱き者の生きる場はあるのか」という問いに対して、父としての罰を与えるのではなくその弱さを否定せず優しく包み込むあり方を示した。疑うことを肯定し、祈りを各々のパーソナルなものに落とし込んだんですよね。
これのなにが素晴らしいかというと、遠藤周作が脚本を書きながら小説版とは大きく異なる邦画の『沈黙』よりも原作への忠実さと敬意に溢れていること。
しかもスコセッシ監督はここに至るまでに長年、日本の映画や近代文学を読みあさり日本文化理解しようと学び続けた。そうした努力の末に、彼らの苦難を追体験させるような、ある種の普遍的な映画が出来上がった。アン・リー監督の協力の下で台湾のロケ地を使いながら、日本人でも違和感を感じない世界観を作り上げたことも他の監督達の日本観を見てると地味に凄い。しかも当時は禁書指定された『沈黙』を、スコセッシ監督は映画として教皇の元まで届け時代を超えた赦しをえたって言う逸話付き。

ただ当時の自分が否が応にも感じてしまったのは、やっぱり根っからのクリスチャンとして信じてる側の映画だということ。上にも書いたように遠藤周作の脚本で撮られた映画は小説とはある意味で正反対で、そこに彼自身や作品の揺らぎを強く感じる。
念頭にあるのはやっぱり日本人とキリスト教の関係であり、スコセッシ版『沈黙』は映画としては文句無しでも、原作に感銘を受けた日本人としては決定的な壁を感てしまう作品だった。


というのが書きあぐねてた『沈黙』の感想なんだけど、先週みたスコセッシ最新作の『アイリッシュマン』を見て数年ぶりにモヤモヤが晴れた。
翻訳本が更に翻訳されたような違いを感じた今作は、確かに監督の血肉となり監督のルーツでもあるギャング映画という生の映画として生まれ変わった。しかも既存のジャンルとは異なる趣で。
『沈黙』を撮った後に「これで終わりだとは思っていません。自分の心の中に掲げて、この映画と共に生きているという感覚でいます」と語ってたように、脈々と受け継がれ自身の作家性を突き詰めていくんだなと感激してしまった。違う媒体の物語の映画化として、理想的な在り方だと思う。