家族崩壊という矛盾。

近年、家族の危機や崩壊といった話題がメディアを騒がせている。晩婚化・未婚化・事実婚・子どもへの虐待・家庭内暴力、さらには介護や育児に付随する問題など。現代の家族は、何か異様な方向に進みつつあるようなイメージをうえつけられるているが、果たしてこれは正しい捉え方だろうか。

家族とは歴史的にも文化的にも、それぞれの社会環境に応じて常に変容する集団であり、現代社会で騒がれている現象は、ある意味で人々の間に共有されているにすぎない「伝統的家族像(近代家族像)」からの逸脱を指し示すものでしかない。つまり、普遍的な家族像というものは存在しないし、本質的な家族というものも存在しない。このように捉えるなら、現代の社会は家族の崩壊が進んでいるというよも、むしろ新しい家族形態への再編成過程だと捉えることもできるのである。

 

・近代家族以前の家族

アリエスは、現代自明とされる家族像は16世紀にかけて定着したものに過ぎないと言う。彼は、中世には〈子ども〉という概念がなかったことを示した。中世では子どもは愛すべき特別な存在とはみられておらず、「小さな大人」としての時期があるのみであった。これは、当時子どもの死亡率が高く、成長してもすぐに方向などにより早くから家を離れていたことで、親子の間での深い愛情、感情が生まれにくかったことによる。つまり、当時の家族像とは〈生産単位としての家族〉という認識でしかなかった。

また日本においては、血縁関係があるかというよりも、奉公人、働いている人、遠い親戚などを含めて、屋根の下にいる者全員が家族とみなされていたのである。

 

・近代家族の誕生

近代家族とは、ヨーロッパにおいては近代初等教育的配慮から「子どもとは弱く純粋無垢な存在であって特別な保護と教育を必要とする」という観念が浸透したことによって誕生した。また、日本においては近代国民国家成立の過程に大きく影響を受けた。徴兵制、家族制度、義務教育といった制作の中で夫婦と子供からなる家族を村共同体、一族などから解放する中で新しい家族像、つまりは近代的な家族像が生まれたのである。

このような、規範性や制度的な過程に飲み込まれるようにして、

核家族を基調とした

・夫婦と子どもが家族の核・中心で、特に子どもが中心的存在となり大事にされる

・情緒性が強く愛情で固く結ばれ、血の繋がった人以外は家族と認められない

・人間にとって最上の心安らぐ場であり、情緒の安定をもたらしてくれるごく小さな集団

としての、近代家族像が誕生したのである。

 

・現代の家族

上述の近代家族像は、確かに理想的な集団のように見える。しかし、このような家族とは同時にその弱さをも内包することにもなる。家族がより大きな単位から小さく切り離されてしまったことにより、惰弱さと閉鎖性を潜在的に備えることになったのである。

日本においては、このような弱さを地域や祖母・祖父が助けになることでうまく機能していた。しかし、これらの関係性が衰退すると同時にその不安定さは再び露見することとなった。とくに、これらは幼少期の育児において特に顕著に見られていると言えるだろう。

 

近代家族像が危機に直面している中、現代の「家族」はどのように変容していくだろうか。結婚という選択肢自体がより自由になりつつある現代社会において、家族はその内部においてもより個別化が進んでいくだろうか。それとも、家族という概念はより広がりを見せ、地域や他の関係性を含んだ、よりオルタナティブな関係性の総体とでも言うようなものになるだろうか。

どちらにしろ、家族というものをあまり限定的に考えない方がいい。歴史的にも文化的にも家族とは様々な形があり、正しいあり方といったものがあるわけではない。現代の家族関係は、あまりにも時代的な価値観に捉われすぎ、逆にそれが大きな亀裂や行き違いを生んできたように思う。家族とは、時代的なものにあまり規定されすぎず、その個人個人が自分たちの家族のあり方について対話を重ねていくことで成り立っていくべきものではないだろうか。他者の目をあまり気にせずに。

 

 

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

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家族の文化誌―さまざまなカタチと変化

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