『ボーダー 二つの世界』


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スウェーデンの税関に勤めるティーナは、違法な物を持ち込む人間を嗅ぎ分ける能力を持っていたが、生まれつきの醜い容姿に悩まされ、孤独な人生を送っていた。

ある日、彼女は勤務中に怪しい旅行者ヴォーレと出会うが、特に証拠が出ず入国審査をパスする。ヴォーレを見て本能的に何かを感じたティーナは、後日、彼を自宅に招き、離れを宿泊先として提供する。次第にヴォーレに惹かれていくティーナ。しかし、彼にはティーナの出生にも関わる大きな秘密があった――。

一部の北欧映画からは自国への冷めた視線を感じる。福祉のために何重にも線引きされ烙印を押される人間。優生学に基づく断種法や不妊手術が強制されてきた歴史。信頼関係の脆さ、コミュニティの建前と本音、善意や援助が暴力となりうる現実。移民への差別や格差が広がる現在。
厳格な線引きを行ってきた福祉先進国から、その全てを覆すこの映画が現れた意味を強烈に問い掛けられる。
様々なボーダーに切り込んできた果てに辿り着いたのがこの映画なんだろうな。今まで見てきた作品の終着点とも原点回帰ともとれる、こういう方向に戻っていくのはある意味で必然的な流れにも思えた。

 

限られた財源の中で福祉の線引きをどこでするか。その基準を追い求めてきたのが福祉先進国であり、人間への厳格な線引きで成り立ってるのが高福祉の現実。その意味でボーダーに最も向き合ってきた国々なんだと改めて実感した。
最近は歴史と向き合う映画も増えていて、そこで繰り返されてるのが福祉と優生学との親和性。福祉国家へ至る過程で行ってきた同化政策や優生思想、援助の名の下に価値観を押し付け虐げてきた歴史。そこら辺も含めて、スウェーデンアカデミー賞をとった背景と流れが見えてくる。

 

今でこそ言われなくなったけど、かつて世界一幸福な国として楽園のように語られた北欧諸国。殆どの人間が幸福なら、そこで幸福を感じられない人間には地獄のような世界だろうなと感じていて、そちら側に立ち続けてたのが映画監督や小説家達だった気がする。
北欧モデルの見直しや移民政策が課題のスウェーデンにおいて、イラン系デンマーク人であるアッバシ監督がこの原作を選んだ事にも意味があるんだと思う。
小説と違い観客に生々とその光景を見せつけるわけで、多様性が唱えられる中でこれでも受け入れられるか!?と突き付けてくる。監督が言ってるような映画の可能性を感じた。

 

『ジョーカー』と同時期に見れたのも良かった。話としては対照的なんだけど、社会よりも徹底した個のアイデンティティに向かう姿が共通してて、「例え社会が変わっても自分の居場所はない」という諦めが目覚めとも取れる。
解釈できても理解には至らない物語の構造は観客すら閉め出し、新たな自分が消費されるのを拒む完璧さ。
アイデンティティを扱った映画は大抵が観客もカタルシスを得るもので、感情移入を良しとしてきた今までの作品とは一線を引いてる。