『ジョーカー』


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アーサーへの同情や共感を誘いながら、残り続ける解釈の曖昧さ。全てを見ればジョーカーを完全に理解できたと思う人間も、真似しようとする人間もいないはず。そんな観客への絶対的な信頼から成りたってる点に狂気すら感じる。
発言にしろ創作にしろ誤解を招く表現が最も恐れられる時代に、よくこんな映画作ったよ。

 

そもそもの原因は、他人を理解した気になって耳を傾けなくなったあらゆる人間にあるわけで、社会というより徹底した個人の話に思えた。監督があげてる共感や思いやりの欠如とか。社会が変わろうと人間が変わるとは限らないわけで、アーサーの生きづらさは変わらないよ。
その上で観客としては、お前達は物語を解釈できても人間なんて一ミリも理解してない。って言われてるようで辛かったな。
都合の良いように話を切り取って、社会背景や生い立ちを自分に重ねて浸って事に気付かされる。結局お前らが好きなのはこういう物語で、それを自分のために消費したいだけ。俺のことになんて興味なかったろと最後には突き離される。他人への無関心を映画に入り込んでる人間に痛烈に示してくれた。
我が知り顔で擦り寄ってくる、安直な同一視すら嘲笑うような、「理解出来ないからジョーカー」って人のためにも作られてるのは上手いよね。

 

この映画は終盤のあれで解釈を分断してしまったわけで、人間の主観的な部分や認識の違いを露骨に示して混乱させてしまう。だから人それぞれの解釈で締めるしかないんだと思う。
個人的にはあの曖昧なオチに対して、そんなジョークを受け取る余裕は無い現実を見透かされてるようで、「お前には理解できないさ」という言葉に尽きる。
どれだけ共感しようとジョーカーを理解できた人間は話の性質上いないし、いるとしたら多分あの人だけ。
都合の良い部分だけを切り取ればただの煽動になるし、現実として厳戒態勢がひかれるのは仕方ないのかな。映画を見て感情移入してしまった人間を嘲笑うような映画に感じたけど。

 

複雑な時代だからこそ純粋な英雄譚は廃れ、どこか影のある存在がヒーローとしても描かれやすい。今作はそんな流れへの一種の反逆。誰かの生い立ちや環境に同情や共感しても、お前は相手のことを何も理解なんかしてない。勘違いするなよ。ってぶん殴られた気分だった。
人の不幸に乗っかる人間の性質、他者の苦しみを理解することの難しさ、それを理解した気になって語る傲慢さ。
自分たちが物語を見て泣いたり怒ったりしているのは誰のためなのか。感情が揺さぶられたからと言って、相手を理解してることにはならない。別に理解してるとは思ってはなかったけど、物語の見方そのものを問い直す作品だった。