『プライベート・ウォー』:伝説の戦場記者メリー・コルヴィン

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戦場記者メリー・コルヴィン。
伝説として神格化された彼女の姿を、PTSDや依存症を抱える一人の人間として描く。
彼女が戦場へ向かうのは、使命感か強迫観念によるものか。これを見ても完全には分からないし、彼女自身も分からなかったんだと思う。一つの行動に明確な理由なんて挙げられるはずもなく、それを幅広く提示するドキュメンタリー畑のハイネマン監督らしい描写だった。
実在の人間の表裏をありのまま描けば、感情移入なんて易々と出来るわけがなくて、この映画はそもそもコルヴィンの生き方への絶対的な共感を誘うものではない。

ここにあるのは真実を伝えると同時に、自分の目で見続ける選択をした人間の姿。
紛争の映像や記事で自分たちはそれを知っていると錯覚してしまうけど、それを本当の意味で直視しているのは撮影者や記者達でしかない。
誰かが真実を見続けなくては成り立たない世界で、私達の代わりにそれを背負い背負わされている存在がいること。彼女と大部分の観客には計り知れない大きな壁があって、終盤はまさにこちらへ発するような言葉が飛び出しその距離は決定的となる。
その壁を自覚した上でしがみつくことは、特定の組織だけでなくジャーナリズムそのものが批判され始めてる昨今にこそ必要なはず。


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ドキュメンタリーとして、映像の背景には常に撮影者の存在があることを示してきたのがハイネマン監督。
彼の映像を見てるとジャーナリズムとは伝える以前にまず見る/聞くことなんだと思う。今作でも真実を伝える以前に、直接見て/聞くことの意義や危険に焦点が当たる。そして記者が訪れ敬意を持って取材を行うことが、現地の人間にとっては微かな希望となること。それを現地の人々だけでなく、大勢の希望として背負わせている事も。
思えばメキシコの麻薬密売地帯に監督自ら乗り込んだ『カルテル・ランド』から、前作『ラッカは静かに虐殺されている』ではスマホを持って抗う当事者の持つ力を示した。これはもちろん不可欠なドキュメンタリーなんだけど、あれを見てさえも「本人達に発信させた方が面白い」とか「今の時代に記者達が最前線へ赴く必要があるのか」という意見へ向かっていく流れはあった。今作はある意味でそんな意見への返答のようにも感じる。
全ての被害者が声をあげる手段や意思を持てるわけではない。その手段となり、時に本人の意思を尊重するジャーナリストの存在は今の社会にとってまだ必要とされてるはず。彼女が呆然としながらペンを置き、その光景を自分の目に焼き付けている姿はまさにそれを体現してた。

しかしハイネマン監督はまだ35歳なんですよね。初映画にしてプロデューサーにシャーリーズ・セロン、撮影監督にロバート・リチャードソンと盤石の製作陣を用意され期待されるのも分かる。
役者を撮ってきた人ではないし、エキストラに当事者達を招くことで、序盤の方は役者より現地を撮りたいのかなと思ったりもした。リアルさを追求して映画としてのちぐはぐさもあったんだけど、後半はもうロザムンド・パンク一色。
撮影順は分からないけど、彼女の役作りがそれだけ本物に近づいたということなんだと思う。監督自身も魅入られてないかなと思うくらいに映し方まで変わってた。観てる側としても、誰かの人生に相応しい表現ではないけど痛々しくて見てられなかった。演技が上手いって次元を超えてる。
個人的には今年の主演女優賞を貰って欲しいし、作品賞は無理かもだけど何かしらの形で認められて残って欲しいな。
ドキュメンタリーから始めて映画監督になる人が多い中、ハイネマン監督はまたドキュメンタリーの世界に戻り発信し続けるらしい。


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この映画は彼女が戦地へ赴いた明確な背景を示すのでなく、それを複合的に示していく。だからこそ安直な見方なんだけど、二度の流産をしても母親になりたかったと語る彼女と、戦場で子供たちの姿を追う彼女を重ねてしまって辛かった。
そんな単純な答えを示す映画ではないんだけど、やっぱり普通の生活に憧れていた人にも見えた。それが出来なかったのは、戦地の惨状を見たからで、それを伝えた時の世間の反応の薄さを知ってしまったからなんだと思う。
あの眼帯も彼女の生き方からすると信じられないメタファーになってるのが何とも言えなくなる。特に復帰した時のあの姿。常に犠牲者の物語を伝えることにこだわっていた人なんだよね。見ている人は必ずいるとその存在で示していた。
大学にいた時はこういう人達の働きを資料として使わせて貰う側だったけど、だからこそ伝記とかも読んでたんだけど、映像としてみるとまた違う。
様々な側面の彼女を描いたことで、その生き方や行動に疑問を持つ人は出てくるんだろうけど、それを背負わせたのは私達でもあるんだろうな。