『ドッグマン』:主従関係というパワーゲーム


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イタリアのさびれた海辺の町。娘と犬をこよなく愛する温厚で小心者のマルチェロは、質素ながらも「ドッグマン」という犬のトリミングサロンを経営し、気のおけない仲間との食事やサッカーを楽しむ日々を送っている。だが一方で、その穏やかな生活をおびやかす暴力的な友人シモーネに利用され、従属的な関係から抜け出せずにいた。ある日、シモーネから持ち掛けられた、儲け話を断り切れず片棒を担ぐ羽目になったマルチェロは、その代償として仲間たちの信用とサロンの顧客を失ってしまう。娘とも自由に会えなくなったマルチェロは、元の平穏だった自分の日常を取り戻すためにある行動に出るが――。

暴力で全てを解決するシモーネと、狂犬にさえ友愛を示し語りかけるマルチェロ。お互いが相手を犬だと思い込めば、二人の相性は悪くない。だが犬と人は違うという現実に気付いた瞬間、人間同士の生々しい隷属感情が顕わになる。
この作品のレビューを見てると感想も解釈も十人十色で、その人の物事の見方が炙り出されてる気になって面白い。

 

鎖のない主従関係を成り立たせているのは暴力を振るう側か従う側か。マルチェロを自業自得の卑しい人間とみるか、絶対的な暴力から逃れられない弱さと優しさを兼ね備えた人間と見るか。そんな二元論では語りきれないのが今作の魅力。
そしてそれを成り立たせてるのが犬と人との関係性だと思う。結局マルチェロは家族以外の人間をどこか犬と同じように見てたんではないかな。そしてマルチェロにとって犬は犬として家族だからこそ、あんな接し方だったんだと思う。冒頭の愛情表現のように、シモーネのことも狂犬として彼なりに接して餌をあげていたんではないか。
犬を愛するようにシモーネを受け入れ、噛まれていることにすら気づかない。これが人間同士の主従関係なら問題だけど、狂犬を世話しようと傷つき続ける飼い主の話なら愛があるでしょ。と言われている気分になった。

 

これは自分がシモーネをそこまで悪いやつだと思えなかったせいもあるのかも。いや悪いやつなんだけど、あれは悪意というより動物的な衝動が勝ってるわけで、何かしら違う解決法があったのではと考えてしまう。現実を考えると一番どうしようもないのかもしれないけど。
二人に共通してるのは家族に見せる表情は全く違うこと。多分シモーネも母親以外の他人のことを犬のように見ていて、ただ彼は犬に対してマルチェロのような愛はない。動物の飼い方が人それぞれなように、彼はああすることでしか接する事が出来なかったんだと思う。親の育て方にまでその方式を適用するのはやり過ぎな気がしたけど。
お互いを犬として見ながら対照的な接し方を見せる。自分はマルチェロに共感してしまって、あの諦めない姿を愛か何かのように見てしまっていた。

 

そんな風に美化して、人間同士ではなく犬と人間の関係を疑似体験させてる寓話なんだと思ってたから、後半の展開は堪えた。
だけど人と犬は違うと気付くことでお互いが人間に戻れたんですよね。それが良かったのかはわからないけど。あれはもう人間同士の主従関係でなく一般的な関係性の中にも垣間見えるもの。人間に戻るとパワーゲームが始まるのはやっぱり辟易する。貫いて何かが変わって欲しかったけど、それを明確に示すのはやっぱり駄目なんだろうな。
あと秀逸なのはそれを犬が見てるという設定で、このごっこ遊びを不思議そうに眺める犬たちの気持ち。。自分は常にここからの視点で見てたように思う。

 

マッテオ・ガローネ監督は現実と空想の曖昧さや境界線を巧く混ぜ込んできて感服する。一番好きなのは現実と妄想の区別がつかなくなる『リアリティー』だけど、イタリア・マフィアをドキュメンタリー風に撮ったものや、民話を再編成してダークファンタジー的に撮ったりと幅広く手掛けていて本当に凄い。
イタリア映画黄金時代の復権を冗談交じりに語ってたけど、作品毎にスーパーマン、マフィア、アメリカンドリーム等のハリウッド的価値観をあからさまに意識してる。しかもそれらを現実的に解釈し直した映画になってるのが面白い。
次は『ピノキオ』の実写化らしいので、どんな風に描かれるのか楽しみ。