他者の苦しみへの責任、あるいは義務。

誰かが苦しんでいる姿を見た時、あなたは何を思うだろうか。

その人を助けようとするか?

その人の話を聞こうとするか?

あるいは、見なかったふりをするか?

そのまま無視して過ぎ去るか?

これが全くの他者である場合、その苦しみに自分が全く関与していない場合、その人がどのような行動をとろうと自由だろう。

しかし、その苦しみが社会的なもの、社会的な要因によって被っているものならばどうだろうか。

我々は、他者の苦しみに対して何らかの責任、あるいは義務といったものを負うことはあるだろうか。個人の自由意思や倫理・道徳的問題に還元することなく、他者を助けるためのより強固な根拠を求めることはできないだろうか。もしその苦しみが社会的な要因によって生じたものであるならば、その苦悩に対して我々は責任や義務を負う可能性が生じる。少なくとも、そうした議論の余地は生じるはずだ。

 

・「Social Suffering」-他者の苦しみへの責任-

社会的な力、つまりは政治的・経済的・制度的な力により虐げられた人々、そこから生じる苦しみというものは確かに存在する。このことを鮮明に浮かび上がらせ、研究テーマにまで押し上げたのが、日本ではあまり注目されていないが「Social Suffering」の分野である。

広くは貧困や疫病、紛争や植民地主義などの政治的暴力、移民・難民問題、差別問題を包括するこれらの研究は、つまるところ個人の苦しみという問題が、単にその人の個人的、かつ対人間の問題ではなく、社会的な問題でもあることを示したといえる。苦しみは、社会構造の一部をなすという意味で深く社会的なものであり、人間とは本質的に社会的存在なのである。

クラインマン夫妻が編集した「Social Suffering」の翻訳本が「他者の苦しみへの責任」として日本でも刊行された。この解説を書いている池澤は、「赤の他人の苦しみに対してあなたは責任がある」という点に関して次のように言う。

社会が個人に与える苦しみにおいて、あなたは「社会」の方に属している。従ってあなたはその苦しみに対して責任がある。それは個人の運命がもたらした苦しみではなく、社会が意図して個人の上に押し被せた苦しみであり、あなたはそれに荷担しているから。その当事者意識をあなたは、遥か遠いところにいる言葉も通じない一生会うこともない「赤の他人」に対して感じなければならない

 

・助けるという行為が持つ暴力性と無関心という名の暴力

他者を助けることの義務や責任を述べたものの、実際に他者を助けるということは言葉ほど簡単なことではない。他者の苦しみとはそう簡単に理解できるものではないし、その結果として場違いな行為が取られること。助けるという行為自体が他者への介入として一種の暴力性をおびること。相手を何もできない弱者として無力化・病理化・スティグマ化してしまうこともある。責任や義務が生じるからといって、それが必ずしも助けにつながるとは限らないだろう。

しかし、だからといって無視するわけにはいかない。

無関心はそうした人々への最大の暴力になりえるからだ。

関心持ち続ける。精神科医として臨床を経験してきた宮地が、そうした人々を「見守る」ことの重要性を説いたように。戦争や紛争、虐殺の研究者たちが、証言者が語ったことを記憶することその証人となることの重要性を何度も主張するように。無関心で無関係だと決めつけることをやめる。

そこから何ができるかはわからない。

しかし、そうしなければ何も始まらない。何かを始めるため、私たちは社会の構成員としてある程度の当事者意識を持つ。これらの苦しみを社会的な観点から眺め、一人一人の責任として自覚することで、無関心を減らしていくことが必要となる。

 

 

 

そんなこともたまには考えながら。

このブログを始められればいいな。

 

他者の苦しみへの責任――ソーシャル・サファリングを知る

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介入?―人間の権利と国家の論理

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哲学者のポール・リクールは「苦しみゆえの義務」という小論の中で、苦しみが他者に対する義務を生み出すこと、苦しみはそれを見たものに責任を負わせることを述べ、「救済される権利」や「援助の義務」に関して触れている。

 

 

震災トラウマと復興ストレス (岩波ブックレット)

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 精神科医の宮地は、3.11に関して触れながら、「支援や気遣いを受ける権利」に触れている。

 

20130224